adidas
1920年、ダスラー兄弟商会設立。1948年に兄弟は独立し、弟アドルフはアディダスを設立。名の由来はアドルフの愛称「アディ」と「ダスラー」をつなげたもの。兄ルドルフはルーダを設立。ルーダは1949年にプーマへとブランド名を変える。プーマの由来はアメリカライオンのピューマから。ただしプーマのロゴはチーター。
1920年、ダスラー兄弟商会設立。1948年に兄弟は独立し、弟アドルフはアディダスを設立。名の由来はアドルフの愛称「アディ」と「ダスラー」をつなげたもの。兄ルドルフはルーダを設立。ルーダは1949年にプーマへとブランド名を変える。プーマの由来はアメリカライオンのピューマから。ただしプーマのロゴはチーター。
鬼塚喜八郎が1949年3月、神戸市に鬼塚商会を設立。当初は市場に不足していた学童靴をメインに展開していた。同9月に改組し「鬼塚株式会社」が設立された。
こうして生まれた鬼塚株式会社は、「ONITUKA TIGER」を印したバスケットボール専用のスニーカーを製造販売する会社として成長。現在のアシックスのルーツはこの会社である。
1963年に、当時休眠会社の中央産業株式会社が、オニツカ株式会社を吸収合併し「オニツカ株式会社」に商号変更。1977年には、スポーツウェア・用具メーカーの株式会社ジィティオ、スポーツウェアメーカーのジェレンク株式会社、オニツカ株式会社の3社が合併し、現在の「株式会社アシックス」に社名変更した。
海外ではアシックスの名で出されるスニーカーよりも、復刻ブランド「オニツカタイガー」の方が人気を集めている。カラフルでレトロな雰囲気からファッションアイテムとして人気を集めている。また、アシックスタイガーも2015年に復活し、当時使われたハイテク素材に加えファッション製の高さで人気を集めている。
「オニツカ」時代の主力スポーツシューズ。現在は60-70年代をイメージしたシューズ、バッグ、アパレルなどを展開。
80年代-90年代に主力だったスポーツシューズ・ウェア。2015年にブランド復活、ロゴも当時のものが使われている。
現代テニスの礎である「ローンテニス」が考案された1873年の翌々年、1875年にピエール・バボラがフランスのリヨンにて創業。元々は弦楽器の弦を製造しており、その技術を活かしてテニスラケット用のストリングを発明。
テニス用具メーカーの中では最も古い歴史を持つ。
テニスのトータル化を目指し、1994年にテニスラケット分野へ進出。ラケットについてはアンディ・ロディック選手が使用しているピュアドライブや、ラファエル・ナダル選手が使用しているアエロプロドライブなどが有名。
2001年にはテニスボールを発表。2003年にはタイヤメーカーのミシュランと提携してシューズを発表。翌2004年にウェア (繊維製品) も発表。
日本では1975年よりガット展開を開始。1992年から住友ゴム工業株式会社 (現・SRIスポーツ株式会社) が輸入販売を行い、現在ではラケット、ストリングス、シューズなどを手掛けている。
更に2005年には、日本でのテニスウェアの製造販売を株式会社デサントが行い、それ以外のアイテムの製造販売及び輸入業務を伊藤忠商事株式会社が担当する独占製造販売契約を締結した。
1977年、ジェーク・バートン・カーペンターがアメリカ・バーモント州で「Burton Snowboards」を設立。彼はスノーボードを世界に広め、本格的なウィンタースポーツとして成長を加速させた中心的人物でもある。
1980年代、アメリカ・東海岸をベースとするBURTONと人気を二分してきたのが西海岸のSIMS。BURTONは当時主流だったダウンヒルやスラロームなどのレースに重きを置く一方、SIMSは初となるハーフパイプコンテストを開催するなどフリースタイル性を追求。
両社の明暗がはっきりと別れたのは、SIMSと契約していた世界チャンピオンのクレッグ・ケリー (Craig Kelly) がBURTONへ移籍したことにある。突出した実力とカリスマ性を持つクレイグの存在は、BURTONにとって最高の広告となったと同時に、彼のフィードバックがBURTONのプロダクトを飛躍的に進化させた。こうしてスノーボード界NO.1ブランドの地位を揺るぎないものとしたBURTONは、ギアだけでなく、ウェア、バッグ、グローブ、パーカーなどのアパレル類にいたるまで、あらゆるアイテムをラインナップする総合ブランドへとせいちょうしていった。
1981年、小倉貿易により日本にBURTONのBACKHILLが上陸。BACKHILLは100本程度輸入。プロトタイプのBACKYARDも輸入された。
2006年には原宿に日本初となる直営店をOPEN、2014年には長野に2店舗目をOPEN。日本法人のバートンジャパン合同会社が運営している。
日本人クリエイターも活躍している。音楽プロデューサーの藤原ヒロシ氏がクリエイティブディレクターを務める『AK457』と、デザイナー相沢陽介氏が手がける『BURTON THIRTEEN』の2ラインが展開されている。
1919年、サイモン・フェインブルームがチャンピオンの前身となる「ニッカーポッカー・ニッティング・カンパニー」を設立。ニューヨーク州ロチェスターに拠点を構え、主にセーターの販売を手がける。
1920年、サイモンの没後、二人の息子エイブとウィリアムの兄弟が「チャンピオン・ニッティング・ミルズ社」として事業を継続する。Tシャツや防寒着を販売。
1924年、ミシガン大学にチャンピオンのスウェットシャツが採用される。これが評判となり、以後はコーチからコーチへ口コミで全米の大学に広がっていく。“One Coach Tells Another”というスローガンが生まれた。
1934年、スウェットは洗うと縮んでしまうのが欠点だったが、縦向きに織っていたコットンを横向きに使用することで防ぐ“リバースウィーブ”を開発。同年、大学のブックストア (大学生協) でTシャツの販売を開始。
1938年、“リバースウィーブ”の製法特許を取得する。
1940年、襟元に伸縮補強用のガゼット (丸首の前・後部分につけられたV字状のパーツ) が誕生。
1952年、“リバースウィーブ”は改良を重ねて2度目の製法特許を取得。同時にスウェットパンツの特許も取得。
1961年、“リバースウィーブ”にパーカー登場。翌1962年には半袖のスウェットシャツがキャンパス用として登場。
1967年、「チャンピオン・ニットウェア・カンパニー」から「チャンピオン・プロダクツ社」に社名変更。
1969年、ロゴマークを一新。現在でもおなじみの“C”マークが登場する。
1970年、女性用アスレチックラインが登場。
1975年、株式会社ゴールドウインが日本でチャンピオンの販売を開始する。
1984年、スウェット、Tシャツの左袖に“C”のロゴマークがつくようになる。
1989年、“リバースウィーブ”に半袖が登場する。同年、ブランド「へインズ (Hanes)」を持つサラ・リー コーポレーション (現・ヘインズブランズ社)の傘下に入り、ノースカロライナ州ウィンストン・セーラムに拠点を移す。NBAの独占公式ユニフォームサプライヤーになる。
1992年にはバルセロナオリンピックのバスケットボール米国代表「ドリームチーム」の公式ユニフォームサプライヤーとなる。
1994年の冬リレハンメル冬季オリンピックにおいて、アメリカ代表の公式ユニフォームサプライヤーとなる。同年、バスケットボール世界選手権での「ドリームチームII」、1996年のアトランタオリンピックでの「ドリームチームIII」のユニフォームも提供した。NBAの全チームとの間で2000年まで、NFLの全チームとの間で1999年から2000年までレプリカジャージのライセンス契約を結んでいた。
2004年、日本で初めてとなる女性向けコレクション「チャンピオンウィメンズ」発表。
2016年3月31日を以て株式会社ゴールドウインは「Champion」ブランドをヘインズブランズ ジャパン株式会社に事業譲渡。